後編
彼は天気のいい休日、布団を干しましょ、と楽しげにすぐそこで歌っていたのに。悩ませ、困った顔にさせてしまっている。私は電話を掛けた父親まで巻き込んでいるのか。
ストラップがついた古い機種の携帯電話を閉じて握りしめているのを見て、携帯をショルダーバックに入れた。
「ごめんなさい」
「何か謝ることがありますかぁ? バカ息子でも分かりはしますよ? 失恋ですよね」
失恋。
真面目な男性だ、どうしようと思って猫が餌を食べているのを一緒に見ていたのを変えていいか。
グッサリと来て弱ったりしたら、とか考えると。
今、見知らぬ年下の男性に心配そうに見られている私は、弱ってないの?
彼が突然、引っ越したりしたら……。ここまで来られなくなった。今日を迎えるまでの長い時間を弱るほどでないと思ったの?
どれも言えなかった。行かないで、一緒に行きたいとも。
ふたりで作った数えきれないくらいの記念日を、ひとりでなにの日でもない、日常として過ごしている。周りの人たちと同じように、なんでもない平日を過ごしているだけだから私は平気。元気。
今日という日ならば、すべてを受け入れられると思って、ここまで来たのに変われそうにない。何も変われなくても、相変らずアクセルを踏めないままでも、平然といる自信もあたから来たのだから平気。
泣いてしまっていても、なにがなんだか分からなくなっていても、私に向けられる強い目があるから平気。
「彼のとなりには、いつも私がいたかった。でも、話していいって思えたのは金曜日だけ夜中の一時から三十分以上は、電話で時間をそのくらいは気にせずに、迷惑かな? とか気にしないで話せたの」
次の日が会社は休みだ。私は土曜日に仕事があっても、日曜は確実に彼の休日だった。
「社会人って、俺も社会人ですけど、サラリーマンの人だったのですね」
軽く同じ体制で猫を見たままこくりと頷いた。
自分の心の行方を彼以外に考えたこともなかったけれど、こんな時間が欲しかったのかもしれない。晴れた日に、この場所で失恋話を聞いて貰う時間。たくさん泣いてしまっているけれど。遅いよ、その人物の登場が!
「大好きだったって、彼に伝えて?」
猫缶を食べ終わって身体を舐めながら日向で寝転がっている猫を見る。きっとよ?
「いいですね、そこまで思って貰えるのは」
猫を挟んだ向かいで大きな体でしゃがみながら、心底うらやましそうに言っている。
「全く男性の人には、よくなんかないのだよ?」
少年から社会人入りをしたばかりの青年さん。実際やってみると、男性にとって私は全く良くないのだよ。
「どんな風に?」
「彼に私は電話をしたいと言って困らせた。私だって残業で電話が出来ない日もあって。メールでいいとも思っていたのは嘘じゃなかったのだけど、なんの用だった? って、電話は出来なかった」
その私が巻き込んでしまったお父さんだって、息子の仕事の都合で電話からメールに変えないとならなくなったら哀しまない? メールには何かの用件がいる。用があったのか? という風に話すことは不可能だ。
「そこの花を撮って送るだけじゃいけませんか? でも、彼氏か。俺だと問題がないような?」
自分で言いながら考えている。撮影をしている様子も見ていたのか、青年。でかい身体をして。
「いけないっていうか、だから一度目は良くても、二回目以降は何を撮るのかから考えることになる。この花が咲きましたで送ったら、次のメールは別の内容を考えないと」
重ねて行く時間。繰り返す記念日。送るプレゼント。送られるプレゼント。はじめは花束をくれた。でも回数を重ねていく度に普段に使える実用的な地味な物になり、忘れられても行った。彼だけが例外でもないでしょう。
「花の育ちメールを送ります。学生のひまわりの飼育日記のように。ここまで育ちましたって。この猫を撮ったり、撮るために探したり。猫を探している間に他のものを撮ったりして」
言っていることは女性の私が聞いていてもかわいい。ずうたいがでかくても青年は恋に恋するお年頃だ。
「いいかもね。それなら、この猫に週二回、代わりに餌をあげて。私、もう、来ないから」
立ち上がった。日向で寝転がっている猫を挟むようにして彼が同時に立ち上がる。
「この子は野良猫ですよね? さっき撮っていたのも花も雑草ですよね? なにを?」
なにを? 青く、雲が流れて行く空を見ていた。今日の空は太陽が眩しくて青すぎて目に滲む(にじむ)。
「今日は、バイバイを言い損ねた記念日。野良猫にも、雑草にも。私は今日以降に会うことはない。今後は絶対に表通りを歩くから。なにを? って、そういうバイバイ記念日」
彼が今日のことを。私とこの時期に別れたことを忘れたとまで思わない。
それこそ彼の住む町にそっくりな黒ぶちの猫がいた時にくらい、思い出すことだってあると思う。
出会わなければ良かった、こんな時に思いそうなことを私は考えられない。
やるせない夜。同じようにまたあっても、数えきれないほど数えてやっていく。
「一周年。記念日には、そのくらいは迎えさせてあげないと。帰る。ありがとう」
鞄を持ち直して駅方面に空の方を斜めに見上げながら体の向きを変え、歩き出した。
一周年のバイバイ記念日。手帳の今日の欄に書く。
バイバイ。
流れて行く雲を見ながら声なく叫んだ。叫んで走り出したい気分だ。心から伝わって欲しいと願う。
今なら、今日なら、一周年が経った私ならば、この記念日に言える。バイバイ。
ありのままの気持ち。きっと伝えてください。大好きでした。私からあなたに作った記念日。大好きだったという気持ちにバイバイをする記念日。心も次の記念日までには晴れる。
もっと言いたくて、もっとして欲しいことあって、一時間だけ会う関係はだめなの? と言いたくて。
バイバイ。そんな私。言えるようになる。言わなくたって、伝わるような人と出会う。
「来週もまた同じ時間に来てください。この猫、毎日、来ていました。このアパートの前に」
そこで。振り返って泣くなと言っても無理なことだ。ごろごろって、にゃー、って。
同じ猫? 餌を休日にあげているうちに、そんなにかわいくなった? 丸くなった?
「ここに同じ時間?」
猫は時間も覚えるのだった? 私がいつも来ていたのが午後二時頃だ。今日は記念日だから同じ時間帯に来た。
「だって、俺、この時間なら必ずいます。木と金曜日。午後はいないこと多いですけど」
真正面に立たれた、長袖の白いTシャツに着古したジーンズ姿が似合いすぎる男性を見ていた。
「それは……」
どういう意味? ここに二度と来ないと決めて来た。いつも歩く道を今後は迷わない。
「強引ですよね? 自分でもそう思います。あなたに会ったことはなかったら、この時間に今まで来ていなかったのですよね。でも、俺との記念日にもしてください。来週も木曜日にここで会えるって。猫を捕まえて手なづけておきます。俺の話を聞いて欲しいと思いました! きっと、伝えて下さい。あなたの記念日の日に。俺にとっては、あなたと初めてバイバイをする記念日です!」
声が大きすぎる。元から大きい声の持ち主。ずうたいもでかいから目立っている。
「だめですか? そういう記念日を作るのは。バイバイを来週に会うためにする記念日」
バイバイを、来週、会うためにする、記念日。
「私は作ったっていいよ。……でも、次に来た時もさっきの歌を歌って、あそこの部屋で布団を干していてくれないと、この道を通りかかるだけだから!」
来週も同じくらいの時間に来る。きっと晴れているから。猫もまたここに来ているから。
「布団を来週も干せます! 絶対に晴れます。カレンダーに書いておきます。バイバイ記念日」
ああ、そうだった。晴れないと布団は干せない。でも、晴れる。来週も。
「うん。青年、バイバイ!」
手を大きく振って、彼に負けないくらいの大きい声を出して歩き出した。
「来週になるまでは名前を聞きません。バイバイ!」
更負けない大声で言われながら、手を振っているのを見て少し笑った。
これが私たちのはじめに別れたバイバイ記念日。
冷たく電話を切った彼に伝えて下さい。きっと来週も晴れる。大好きだったよ。
彼とのことばかりを悩んで来た一年間の私に、やるせない夜の私に、きっと伝えて下さい。バイバイは、お別れするためだけに作る記念日じゃないのだと。
明るい君となら、来週だって晴れるから、歩いて行けるかもしれない。
伝えて下さい。さっきの名前も知らない彼にも。来週を私も忘れはしないでしょう。
彼に私が作った、彼が私に作ってくれた、バイバイ記念日。誰にでもある記念日。