バイバイ記念日 (1)

風見鶏

前編
後編

前編


 もうすぐで季節も変わるのか。ゆっくりと歩きながら、どうでも良いことをわざと考えていた。
 それでも、迷うことも、なにも考える必要もない道のりだった。野良猫が「にゃー」と言って曲がって行った角を追いかけるようにして進んだ。車の往来が多くて、こぞって色とりどりの花や木を庭に植えている一軒家が立ち並ぶ通りから裏道に入ると一転する。目の前に空き地と見間違う駐車場があり、古い造りのアパートが続く。
 布団屋の前でピタリと止まった。
 その二階がアパートになっている。お店の脇の錆(さ)びれた階段から離れた日当たりの良い部屋を見上げる。三部屋あるアパートの前はコンクリートでなく、土で薄紫の小さい花が咲いている。雑草でもかわいい。
 ショルダーバックから携帯電話を取り出した。しゃがみ込んで開ききっている花に焦点を当てた。
 パシリ。
 自宅に帰ったら携帯電話からパソコンに取り入れて日付入りに編集をして印刷し、空きスペースだらけの手帳の今日の欄に貼ってやる。
「布団を干しましょ、今すぐ干しましょ!」
 アパートの各部屋におまけでついているような小さいベランダから大柄な男が出て来た。
 お昼を過ぎている。布団を干すには遅くないのか。快晴の空を見上げた。でも、今日はいい天気だ。
 ここを離れて見知らぬ町へ行くなら、自作に違いない歌を明るく歌って布団を干す男はどこに行く?
 私なら、彼を思い出さない町へ行く。難しいことではない。スーパーのパート契約のレジ担当でしかないし、賃貸アパートの更新時期ももうすぐだ。
「あのう、誰かこのアパートに会いに? 今、俺しかいないと思います」
 ベランダを見上げ続けていたら男と目が合って言われた。木造のアパートのその部屋は、昼時のうるさい時間帯でも下の布団屋の音や表の車の往来の騒音が途切れることなく聞こえることをよく知っている。
「そっか……」
 今、俺しかいないと思います。
 それが言葉そのままの意味だったらどんなにいいだろう。
 二階の奥のその部屋は、ここのアパートの三部屋の中ではとっておきで一番家賃が高いはずだ。今のこの時間に布団を干していても問題ないほど日当たりが良くて、部屋の中も温かい。畳敷きの六畳一間に押し入れ収納。以前も今も部屋の中で布団を干せるほどのスペースがない部屋なのは変わらないらしかった。
「気にしないで。今日だけ。もう来ないから」
 男はベランダから乗り出すようにして見下ろして来る。私は、あやしい女になってしまっているか?
 私のすぐ傍で「にゃー」と猫が言って座っている。その前に屈んだ。白に黒ぶちの猫。今日は高い猫缶だぞ?
 この道に今は人がいない。主婦がいてもショッピングカートを敷いて足早に歩いて行く。
 毛づくろいをしている猫に鞄の中から缶を出して、取っ手を引っ張ってふたを開けて前に置いた。
 ――餌(え)づけをこんな所でするなって管理人や近所の人に怒られるよ?
 猫缶をあげる時、彼は楽しそうに笑って隣にいた。その辺の葉を引き抜いて黒ぶちの猫と遊んでやってもいた。
 あの時に私たちが、主に私が、餌を上げていたあの頃の猫とは、そっくりで見分けがつかなくても違う猫だ。
 今日は特別な猫缶の餌だぞ? 以前も猫に缶の柄まで分かるわけもないのに見せながらあげていた。
 猫に餌を毎日やると怒られると彼が言うから週二回、仕事が休みの日だけ来てあげていた。
 体つきが丸い猫だ。やっぱりあの猫とは違う。もっとやせていて、かわいくなかった。私の目の前でゴロゴロと寝転がって、毛を舐(な)めながら餌を食べて、おいしいよ? とでも言いたげに見上げてなんか来なかった。
 かわいらしくない性格の猫だからこそ、かわいくもあった。でも、私は二度とここに来ない。
 ――突然、転勤。引っ越すことになっちゃってさあ。サラリーマンの宿命でもつらいね。
 そんなことは、全くつらくないよ。君と一緒に私が行けたら、いくつ先の駅に行くことになっても平気だった。
 ――今度の休日、猫に餌をやっておいてよ? いきなりあげなくなると可哀想だから。俺が引っ越したせいで弱ったりしたら? とか考えると心が痛くなる。お前に任せられたら俺も安心だよ。忘れないだろうから。
 そのときの電話は、付き合っていた私たちが話すことは他にいっぱいあったはずだった。それなのに彼は猫のことばかりをひとりで喋りまくっていた。
 遠回しの別れ話だった。なにも言わずに去るほど非情になれなかったのか、私が管理人を問い正して居所を突き止めて追いかけて来るかもしれないとでも考えたのか、二人で可愛がっていた猫のことだけは心配になったのか、私の休日の前夜はいつも電話をくれていたから習慣でかけただけなのか、なんだったのか。
 私は別れの言葉も貰えず、切られただけのことだ。
 どうして私ではダメなのか。理由なんかあってなかった。それ以上、彼が私と一緒にいたくなかっただけだ。
 彼がどう考えたのかは知らない。でも、そういうことだった、と私が受け止められるまでに時間がかかった。
「あのう、平気ですか?」
 布団を干す歌を歌っていた男は、まだ窓を開けて布団を干せるだけの広さのベランダから見下ろしていたのか。
 泣いちゃった。涙が出て来ちゃったからね。ハンカチをズボンのポケットから出して握り締める。
 どうしてだろう。忙しくて電話が出来ないことを責めた。言い訳だよって。
 本当に言い訳でしかなかったのだけれど、ひとりの時間を大事にしたい人なのは知っていたのに。
「嫌い。ひとりの時間が好きな人なんか」
「なんですかぁ? 聞えません。下に俺が降りるのもなんか。ひとりでいたいかなあ? と」
 大声を持つ男だ。私が呟いた声など、周りで飛んでいるカラスやむこうの車の音に消されて行く。
「嫌いだって言ったの! 言って欲しかったの!」
 大通りから曲がった道。人気はなくても通行人はいる細くて短い道。ぶち猫も目の前にいる道で叫んだ。
「そんな風に言われて、傷つかないのですか?」
 真面目な声になっているのは分かっても、猫から、コンクリートと土の間の薄紫の小花から顔を上げなかった。
 何かが恐くて顔をあげなくなると、彼自身が見えなくなった。彼が私の顔を覗き込んでもくれなかったからだ。
 電話をしても出てくれなかったのをメールに変えても、期待した何らかに彼が変わることはなかった。
 可哀想だから……。私は可哀想なんかじゃない。次の道へのアクセルを踏み込めないでいるだけだ。
 彼と待ち合せていた駅で偶然に会って話したことがある友人には言われた。
 ――遊び人だと分かっていて付き合ったのでしょう?
「そんなつもりはない」
 猫に「にゃー」と答えられた。食べつくした缶を何度も舐めている。高いぞ、その猫缶。泣ける。泣けるよ。
 私にとっては全てつまらなくなかった。彼との全てのハードルが高かった。
 友人に指摘される前から、遊び人に彼が見えていたし、騙される側でしかない自分も知っていた。地味でダサイ女。そうしか見えない構図に悩み、重い女になりそうなほど彼を思った。今も似た思いを抱えてやっている。
 あんな奴、大嫌い。
 何度もそう思う。私は間違ってなんかいなかった。別れて正解。彼の転勤がなくて別れていたら悲惨だった。
 彼はまたスーパーに買いに来て、私は笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてレジを打ち、「ありがとうございました、またどうぞ」などとマニュアル用語を繰り返して頭を下げて見送るしかなかった。大阪に行く用もないし、接点もないから二度と会う必要がないし、あと腐れもない。地味で平凡な日々に戻れて安心。
 でも、彼の転勤話がなければ……。
 君とそっくりな柄の黒ぶちの猫を見るだけで、可哀想になるのでなくて、寂しくなるよ。
 転勤話はいきなりだったわけでもない。その少し前から上司に耳打ちされたと嬉しそうに言っていた。
 ――まだ分からないけどね。
 居酒屋の向かいの席でビールを飲んでいた彼は、なんてことのない顔でつまみをつついていても、横浜にある本社から大阪支社にものすごく行きたそうだった。
 ――お前に任せられたら俺も安心だよ。
 彼が私に思っていたこと。繰り返し思い出していて分かった。黒ぶちの猫のようなものだった。
 かわいくはあった。触れたくもあった。でも飼おうとまで思わなかった。気が付いて何か言いたくなっても遅い。
 ――忘れないだろうから。
 私の記憶力は重要だったの? あんたは忘れてばっかりだったよ。私の食事の好みや待ち合わせ場所だけではない。自分から言い出して作ったたくさんの記念日も。
 出会いの日。誕生日、バレンタイン、ホワイトデー、クリスマス、彼から告白して付き合うことになった日。
「だいすき、でした」
 ぽつりとつぶやいてみる。
 どうか。お願いだ。この大切な私の思いを彼に伝えて。それでどうなるものではなと知っているけれど。それでも彼に伝えて。
「あなたがいなくなっても、私は仕事を変わらず元気にやっています」
 お前は良くも悪くもそのままだよな。あんたがつぶやいた通りの女でやっています。
「きっとこれでいい」
 猫は缶を綺麗に舐めていても食べ終わりがいつか分からないし、遅い。途中で手や口を何度も舐めている。
 彼と土日に会えた試しはなかった。私の休日が平日二連休だったのだから、あまり会えなくても仕方がない。
 猫に餌をあげる時間しか付き合えないと言われたことが何度もあった。それでも良かった。ここまで頑張って着替えてメイクをして走ってきた。それが“本当の恋”なのだと思っていた。今もそれが恋人関係という形だったのだろうと考えている。足元が生暖かい。猫が体を摺り寄せて来ていた。
 背中を撫でるとゴロゴロと鳴いている。今日の可愛い君に出した最後のランチは、最高級の猫缶だったぞ。
「とっても大切な毎日でした」
 涙が出たまま、しゃがむのをやめずに呟き続ける。忘れずに来ていたのだから褒めてよ?
 彼の引っ越し先は聞いていない。携帯電話は変えないようなことを言っていたから繋がるのかもしれないけれど、もう変わっているかもしれない。別れ話らしい猫の話題の電話以来、かけてみたことはない。
 きっとこれで良かった。そう思い続けた。そうやって思い続けないと、私の日常を続けて生きて行けなくなる。
「言いたいことは、たくさんありました」
 週末には引っ越すって夜にだけ、自分ばっかり話しまくらないでよ。
 彼と付き合っていく日々、月日がめぐって行くのが怖かった。どれもこれも早くはやくと急いでいた。
 さっき携帯にカメラ機能で収めた小さい花を見る。やるせない夜、どれだけあったことでしょう。
 今夜、電話をするねって別れたのに、電話が来なくて。メールもなかった。彼が去って行った後も大差がなくていいなんて思えるほど、私は強気に出来ていない。
 せっかく一緒に出かけているのによそ見をしないで。あなた好みそうな洋服やメイクや髪型をして、慣れないおしゃれをしていった私になにか言ってあげて。
 そういうことを言わない彼が好きと思っていた。そういう人だと知っていて好きになったのに。
 どうか。ひとつだけ聞かせてください。私に心を開いてくれていましたか?
 唇を重ねる行為に、抱き締められる強さに、私の中に入ってくる温かさに、気持ちの証拠がある気がしていた。
 やるせない夜。あんたと関係がなくなって、忘れないと思う私が忘れたって、やっぱりまたあるのでしょう。
 この道を自分のための通りとでも言いたげにのんびりと歩いていた猫のように、たくさんの時間が経ったのに同じ道を迷わずに来られてしまう私は、本当の恋をしていた。
 電話じゃなくメールがいい。その方があんたの反応を気にしなくて済む。メールの方が後であれこれ自分が考えなくていいような内容にまとめて送信が出来る。それでも声が聞きたかった。彼に伝えることはできなかった。
 バカな気持ちだ。学生じゃないのに。でも、年齢で恋愛の仕方も決められるものなの?
 ここに来る休日は、いつも晴れていた。
 彼との日々を思い返す時は、今と同じ薄紫の小花が咲いている季節じゃなくても、冬でもよく晴れていた。
「ありままの気持ちで好きでした」
 この前、結婚をした職場の男性が彼女に伝えたという言葉を口にした時、声が上から降って来た。
「あのう、深刻に悩んでいて、ひとりでいたいのも分かったるのです。でも、女の人がひとりで泣かせているのは、どうなのだろうと。俺の部屋の前で泣いているので無関係でないです。誰かに同意をして欲しくて親父に電話をしてしまいました。あなたのことを言うのもないと考えていたら、何の用だった? と電話を切られました。どうすべきか分からないので、俺が前で見守っていることにしました。気にしないでください」
 さっきベランダで歌っていた男だ。寝転がっている猫を挟んで近すぎる向かいの位置に話しながらしゃがんだ。

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