曖昧ゾーン (2)

第一話 - 2 頁


 どれにすればいいのでしょう。購買の手前ではボックスに水が張られ、数種類のペットボトルが氷で冷やされて並んでいた。
 佐原君のファンクラブのひとりと目が合ってしまった。彼女だったら、すぐに佐原君の好みが分かりそうだ。
 いつも五人組で一緒だったのに、クラスがお二人だけ違ってしまったのですか? 残りのお二人が同じクラスでもないから、おひとりで飲み物を買いに来たのですか? 高校三年生のクラス替えは、進路別なので仕方がないのですか。大きなお世話ですか。お仲間にここで私と会ったことは言わないでおいて貰えますか?
 どれも言えるわけもなく、慌てて視線を逸らし、彼女がキリンレモンを買って出入り口の方に行ってしまうまで悩んでいるふりをした。
 秀美たちもキリンレモンだった。佐原君もそれを見ていいなあ、と言っていたのでした。でも、無難にお茶にするべきではありませんか? レジカウンターにいつもいるおばちゃんの視線に押されるようにして、ジュースとお茶を渡した。
「レシートは必要ですか?」
 タオルでペットボトルを拭きながら聞かれる。
「いいです」
 佐原君はペットボトル二本分、二百二十円をぴったり渡してくれたから。
 冷えたペットボトルを受け取って片手で胸に抱え、校庭に向かって歩き出した。私は、くじ引きで不本意に学級委員に選ばれたのに、わりと頑張っている、と思っていたけど、佐原君も同じなのでした。難なくこなしているのでそう見えません。立候補でないのに、前向きで偉い。私は後ろ向きに佐原君にみんなやって貰っているようなものだ。始業式の案内係もプラカードを持っていただけの気が……。
 役に立っていない。
 ああ、マイナスなことを考えるのはやめにしよう。校門が見えて来る。佐原君は友だちと話していた。
 二人の笑い声が聞こえて来た。朝の教室でも話していたケンゴ君。同じ写真クラブで仲がいいのは知っている。
 うちのクラスは自習が終わったらしい。秀美たちもプリントの計算問題を解き終わったから、ジュースを買いに出たのだろうし、今も購買で買えた。飲み物を買うくらいは問題がないのでしょう。男子たちも苦手だなあ……。
 同じ学年の中心グループの田村さんたちと全く話したことがないだけでなく、他の女子ともあまり喋っていない。それなのに、男子を一括してしまうのか。でも、苦手なものは苦手だ。私って得意なものがあるのだろうか?
 初対面の人と話すのはものすごく苦手だ。忘れもしない高校一年生の始業式、知り合いは見当たらなかった。秀美と公香は、体育館で仲良さそうに喋っていた。私も一緒に行動させて欲しいと頑張って話しかけた。「オーケー」と同時に軽く返してくれた二人が同じ中学校だったから、私は聞き役でよかった。そこから仲良くなれただけで奇跡なのだ。
 ああ、今の今、こういうことを考えるのをやめると決めたのではなかったのですか。でも、でも、男子たちが楽しそうに話しているところに自分から声をかけるのは、大の苦手だ。飲み物を渡さねばならない用事があったとしても。
「あの、どうぞ!」
 二人の目の前に立ってペットボトルを両手で差し出した。
「あ、どうもどうも。学級委員の仕事、お疲れさま。俺、ジュースを貰っていい?」
 ケンゴ君の笑顔に頷いた。佐原君を見上げる。早く受け取って。お友だちは、ふたを開けて飲み始めている。
「あ、あの、他の飲みものに変えて来た方が……」
 ペットボトルを握り締め、佐原君の方を見上げて言った。目まで見られない。その前にどもりを直したい。
「お茶でいいよ。ありがとう」
 佐原君に笑って受け取られてほっとしてしまった。緑茶に文句をつけられては、キリンさんも泣くって。今の私の代わりに。
 校門の脇に立てかけておいたプラカードを持ち直した。校門前に新入生たちの影は見えない。
 案内板は、もう必要がありませんか? でも、まだ体育館前は誘導をし切れていない。学校イチの不良の大村君が見えた。あの男女の方たちは、お隣のクラスでしたか? 確か四組だと囁かれていた。茶髪にして、ルーズなセーターを着ている。明らかに校則を守っていない。小柄な女子の方は記憶にありません。彼が学級委員に選ばれるのはどうなのですか。四組もくじ引きにしたのですか? ああ、目があったら困るのです。見てはならない。生意気なことを考えるのは、やめましょう。
 コンクリートに視線を落とした。早く解放されたい。残り三十分くらいが長過ぎる。
「数学の自習のプリント、分からなすぎだって。担任が安達ってハズレ」
 思わずケンゴ君に頷いてしまった。私もそう思います。数学なんて一番苦手な科目だし、就職クラスの五組に似合わない。
「計算問題ならなんとかなりそう」
「佐原はね。どうしてグラマーまでやらされるわけ。枚数があり過ぎ。俺もなにかの係をやっておけばよかったな」
「家でやれば、答えが出せるものならね」
 佐原君の余裕な笑みをケンゴ君と一緒に睨みたくなってしまった。
 始業式で係をしている生徒たちも放課後までに課題を提出するのではありませんでしたか? 担任がプリントの枚数を数えながら、前の席に順番に配っていた時にその説明をしていませんでしたか? 一番はじめにプリントを手渡された私がよく聞いていなかったのですか? なぜ、各担任の教科で作成をされた課題を自習時間にクラスごとに取り組むのに、英語の課題まで配られていますか? てっきり計算問題が二枚だと思いました。三枚目はわら半紙の計算用紙でした。フォルダーに入れた時に見たので覚えています。数学の問題と計算用紙の間に、グラマーの問題を挟む安達先生が分かりません。私がどれも聞き損ねましたか?
「はじめの課題から点数が取れないと印象が悪いと言っていたのは、お前だろ」
「それはね。担任には内申点をつけて貰わないと」
 二人で黒そうなことを話している。佐原君の名前は、各学年の廊下にある伝言版でいつも目にして来た。学年十位までの賞与が貰える生徒として張り出されている。しかも私が見て来た限り、上位三名から落ちたことのない成績のはずだ。てっきり進学クラス希望だと思っていました。就職をされますか。
 音楽が鳴り、顔をあげた。体育館に移動する校歌の合図だ。
“始業式のお知らせをします。生徒の皆さんは……”
 放送もかかっている。音楽だけでなく、放送部が声をかけてくれると言っておいても貰えませんか? 桜の木の前に集合する時間に遅れたから、そこも聞き損ねたのですか?
 校舎から生徒たちが出て来ている。新入生にじろじろと見られ、上から見下ろされ、視線を四方から感じる状況からやっと解放される。
「ゴチ!」
「捨てて来る。戻ってくるまで待っていてくれる?」
 佐原君と目が合った。ペットボトルをグシャリとやっている。飲み終わるのが早い。頷くだけで精一杯です。そんなに喉が渇いていましたか。佐原君は潰した二つのペットボトルを持って、ゴミ箱の方に行ってしまった。
「あいつさあ、最近、変じゃない?」
 ケンゴ君に顔の向きを変えられて微笑まれる。肌が黒く筋肉質。色白でスラッとした佐原君とは違うタイプでも、この人にもファンクラブがありそうだ。そんなことを聞かれても……。
「よ、よく分かりません」
「楽しそうっていうか」
 ケンゴ君は笑って同意を求めて来る。楽しそうなのが変? その言い方が変です、と言いたい。
「はあ……」
 間抜けな返事しか返せない自分を変えたい。でも、強気な返しの発言をこの性格でできるわけがない。
「そう思わない?」
 うわあ、前のめりに笑顔を向けられても、とりあえずは見上げるけど、普通に会話はできません。
「た、楽しそうで良いことかと」
「そう! はじめて佐原と同じクラスになれたからさあ、親友代表としてはうれしい」
 微笑みに頷き返した。そうだよね。佐原君のファンクラブの人たちが佐原君に声をかけていた。
 ――親友同士、同じクラスになれてよかったね!
 佐原君は、廊下で固まっていた女子の輪に笑い返していた。親友のケンゴ君とは、小学校時代からずっと一緒だったのに、同じクラスになれたことがなかったそうだ。私は、佐原君のことをなにも知らないのも同然だ。
「鵜飼さん、大村についでに聞いて来た。撤収。プラカードを戻して。俺は、担任に学級日誌を出す」
 小走りに佐原君が戻って来た。あの大村君を呼び捨てにできる方でしたか。
「え、日誌?」
「大村と話して、さっさと書いちゃった」
 笑っている。向こうで大村君となにか話していた。ゴミ捨てのついでで全くない。
「ありが」
「気にするな」
 ケンゴ君にいきなりこっちを見て言われる。
「それよりグラマーのプリント、どうするよ」
「自分でどうにかしろよ」
「この暑さで頭がやられました! 去年の春もこんなにあつかった?」
「担任に言ってこい。終わりの頃はよかったと思う」
 私の言葉はケンゴ君に遮られ、二人の話題は他のことに移っていた。プラカードの手持ちの棒を持ち直し、二人の後ろを歩きだす。去年の春の終わり頃。佐原君は覚えている? 放課後、廊下に聞こえて来た言葉を。
 ――オオバカ。
 ダメだって。考えるなって。佐原君は覚えていない方がいいことです。このままやって行ければいいのだから……。
「なに?」
 佐原君が目の前で急に振り返って、飛び上がりそうになった。首を振る。私のことなど気にしないでください。
「鵜飼さん、真面目にやりすぎ! 良いことだけど、肩の力を抜かないと」
 プラカードの棒を取られて、ジュースのパックをポケットから出している。
「水分を取っておいた方がいいよ」
 笑顔で差し出され、なんとか目を合わせて頷いて受け取る。佐原君は頷き返し、ケンゴ君との会話に戻っている。自習のプリントは、グラマーの問題が相当難しかったらしい。なにも返せなかった。
 高校生になって、少しは会話ができるようになったはずなのに。自分が気にし過ぎる自覚はあるのです。でも、どこら辺が真面目にやり過ぎているのですか? 佐原君ができるから楽をさせて貰っている。
 ジュースのパックにストローを指してごくりと口に含んだ。
 いつものみかんの味が口の中に広がる。これって、好みを考えてくれたの? 女の子たちに人気があるとか?
 散っていく桜の中、プラカードを持っているから、まだ新入生たちに声をかけられている佐原君を見ていた。
 今日だけは、学級委員決定のくじ引きもよかったことにしておこう。
 だって、本当に今日だけで。こんなことで。それ以上なんかなくて、いいのだから……。
 佐原君と高校生活最後の学年でやっと同じクラスになれた。またこんな風に話せる機会もできた。秀美や公香とは三年連続一緒のクラスだ。楽しもう。みかんのツブツブが入ったジュースをごくごくと飲み干した。

 始業式が終わり、教室に戻った。佐原君が教壇に立ち、クラスメイトに声がけをして自習のプリントも集めてくれた。私は、黒板消しをしていただけだった。今日の学級委員の仕事は、学級日誌に自分の名前だけ記入をすれば終了した。なにも分からないままに時間が流れた。ひとりで提出物を職員室に持って行くと申し出た。
「鵜飼、頑張れ」
 担任はプリントの山と日誌を受け取る時だけ椅子を回して振り返り、ぽんと私の肩に手を置いた。その理由は、佐原君のおかげのだけの学級委員の私に聞くまでもありません。
 佐原君は、下駄箱で待っていてくれたらしかった。私がスニーカーに履き替えると、なにも言わずに歩き出した。
「あ、鵜飼さん」
 いきなり振り返られて、またドキリとしてしまった。佐原君もご親友も言葉をかけてから動くことにしてください。
「さ、さっき担任が自習のプリントの提出は、明日の朝までと念を押していました」
 佐原君は、頷いている。だから? と言いたげに見下ろさないで欲しい。私としては頑張って要約して伝えました。
「メモ用紙ある?」
 頷いて、スカートのポケットからハンカチやティッシュごと取り出した。折りたたんだルーズリーフの紙とボールペンも入っている。
「あ、今度でいいや。用事があったらメールをして」
 斜め掛けの鞄のポケットから四角いメモ用紙を差し出された。あ、連絡先の交換でしたか。
「ありがとう」
 紙を受け取り、佐原君の目を見てやっと言えた。メモ帳くらい持って来ましょう。佐原君が渡してくれたようにワンポイントがあるお洒落なやつを。
「あ、うん……。バスが来た。これに乗るのだった?」
 頷くと、佐原君は、ニコリとしてくるりと背を向けると、軽快に歩いて行った。
 バス停で佐原君の背中に手を振る。音を立ててドアが開いた時、振り返られた。大きめに手を振った。
「俺のうち、商店街の本屋だから!」
 大声で返されなくても知っています。勝手に帰って行ってしまった、なんて思っていません。大きく振り返された手に頷き返して、リュックを肩から降ろし、定期入れを出してから乗り込んだ。いちいち自分の行動が遅く感じる。気にし過ぎのせいではない。
 車内アナウンスを聞きながら手すりを持つ。反対側に歩いて行く佐原君が小さくなっていく。
 私の高校生活は、今のままでいい。ずっとそう思っていた。
 でも、違う。定期券入れに佐原君から受け取ったメモ用紙を半分に折ってしまいながら思う。今日よく分かった。私は今のままが良い。
 佐原君やその親友さんや友人たちとの会話をもっと楽しめるようにはなる。少しの生活の変化に喜んで、卒業式まで過ごしたい。他のことは、夢を見ているだけでいい。
 だって、もう傷つきたくないから。

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