海に消える

読み切り完結


 夜の十一時。ジャスト。電話の子機を眺める。
 鳴れ。頭の中で命令する。早く鳴れ。
 静まり返ったアパートの部屋に予想以上に大きいベルが鳴り響き、私は慌てて受話器をとった。
「あ、はい。もしもし?」
 相手は分かっている。この時間にかけてくる人は彼しかいない。
『安藤だよ』
 優しい声が受話器に響く。自分の名前を気だるげに呟く彼の吐息を聞きたくて、私はいつも耳を澄ます。
「お元気ですか?」
『元気だよ』
 彼の声が遠くに聞こえた。それは日本とイギリスの距離や電波の悪さ、彼の声が高くて小さめだとかいう理由だけじゃない。
「……賞の受賞おめでとうございます」
 私は喉から声をすっと出せるように願った。この声が自然に響きますように。
『ありがとう……』
 新進喜悦のガーデニングデザイナーが欲しがる最高の賞。世界デビューにふさわしい輝ける名誉。
 今日のネット記事にそう書いてあった。デザインのこととか、ましてや庭に特化するデザインの世界的デビューについてなど、神奈川県の下町のちっぽけな安アパートにひとりで今も住んでいる私に分かるわけなどなかったけれど、それがヨーロッパではものすごい賞で、彼がどれだけ認められたのかは分かった。
 私たちは黙り込んだ。私はぎゅっと受話器を握り締めて、玄関の下駄箱の上に置いてある固定電話の前で立ち尽くしていた。
 次のことばが見つからない。用意していた数々の祝福の台詞が出てこない。
「今日の受賞パーティーの様子、ネットニュースの記事にリアルタイムで報じられていました。世界的に名誉ある賞だって雑誌にも書いてありました。ホントすごいです」
 結局、口から出てきたのは、そんなありきたりの褒めことばだった。
『賞を取れたのは、周りの人たちのおかげだよ』
 彼が笑いを含んだ声で囁くように言った。
 一瞬で捉えられた彼の茶色い瞳を思い出した。
 私を見下ろして微笑むその顔を、目の前で見上げているかのように思い浮かべることが出来る。
 彼のやわらかい指先が私の髪の毛に触れるように伸びてきて、頬を撫でて抱きしめられる。
 私はそれを待っていて、彼の背中に力強く両手を回す。彼の体重が上からかかり、熱い息が耳元に触れ、いつも首元の同じ場所に痕(あと)がつくほど痛くキスを落とされる。私は彼に気がつかれないようにため息に似た息を吐いてしまい、彼の背中に回した腕全体に力を込める。そして、彼はいつもそっと私の中に入ってきて、私に愛のことばをくれた。
 ――好きだよ。
「……そうですか? きっと才能ですよ」
『なんで今日は敬語なの?』
 くすりと笑って彼が言う。
「えっと、それは、なんとなく」
 彼に合わせるようにして笑って私が答える。
 ――好きだよ。
 彼は呟く前に私の髪を必ず耳にかけるから、私は彼の茶色い瞳をじっと見て耳を澄ます。
 ――好きだよ。
 そのことばが自分の耳の奥まで響くのを。
『……あ、ちょっと誰かが呼んでいるみたい』
 彼の後ろは、ざわざわとし続けていてたくさんの人たちがいるようだった。そこにはきっと私の知らないきらびやかな世界が広がっているのだろう。
「じゃあ、また」
『ああ……』
 私はゆっくり瞳を閉じた。泣かない。絶対、泣かない。
 彼の夢が成功して欲しいと願って空港まで見送りに行った。
 メールに何度も打った“がんばって。応援している”の文字は本当の気持ち。
 あなたが成功するのを信じている、いつも励ましていたのも本心からきたもの。でも……。
『じゃあ……』
 早く電話を切って。早くその受話器を置いてしまって。
 ねえ、あなたは気がついていた……?
 この関係は今日、終わる。
 私たちは同士だった。私は日本で夢を追い、彼は外国で夢を追い。
 自分の夢の具体的な目指し方も分からず、だらしなく酔っぱらっていた彼と、料理人を目指して居酒屋のカウンター内でくすぶって働いていた私は、帰り道が偶然に一緒になった夜、簡単に男と女の行為に堕ちた。
 なにもない私の六畳一間の和室のアパートで。まるでどこかで聞いた懐メロのように。クーラーも利いていない部屋で。私ははじめて彼に抱かれた。
 三年前の夏の日のことを鮮明に覚えている。
 強すぎるほど抱きしめられた時に私が感じた身体の痛みや彼の荒い息遣い。
 古い畳が素肌の背中に痛くて。畳に髪が絡まったと愚痴ったら、あなたはそっと起き上がって私の頭をいつまでも撫でていてくれたよね。
 お互いひとりで。夢の途中で。世界は広く眩しく。この関係はいつまでも続いていくと勘違いしたくなるほどだった。
 ねえ、あなたは気がついていた? 私が……。

 彼が旅立つ日、私たちは空港の近くのバーで乾杯をした。
 入賞を目指してしばらくイギリスで生活する彼。新しいレストランで料理人になる夢を追い続けると決めた私。
 私の夢より彼の夢の方が先行していた。
 彼が成功した頼りが聞こえる日は近いって分かっていた。
 毎日電話をくれたよね。夜十一時。お互いの都合が合い、ぎりぎり空く時間。
 短い電話でも。たった五分の電話でも。毎晩繰り返されること嬉しかったよ。
 終わらせたくないって思っていた。
 だけれど終わる。
 彼にもう私は必要ない。自分の夢しかなくて。私だけしか味方と言い切れる人間がいなかった彼ではもうない。
 これからの彼には、私になんか想像つかない世界が待っている。
 いつか私の存在が邪魔なように感じてしまう、感じているのがわかるようになる日がきっとくる。

 いつからか。はじまりより終わりを考えるようになっていた。

 あなたが賞を狙って旅立つ数日前、結婚を考えているなんて言ったのは嘘だよ。
 そんなことはどっちだって良かったよ。
 嘘じゃない。本当だよ。
 ただこの関係が永遠に続くって保証が欲しかっただけだよ。
 この関係が永遠に続くって感じられるものがあるのなら、私たちの関係が続いて行くと請け合ってくれる他の方法があったのなら、なんだって良かったよ。
 結婚じゃなくたって良かったよ。
 でもそれは……。
 そんな本音を伝えるのは、結婚を考えていると言うより、あなたに重く響く気がして。
 ――今は考えられない。ごめん。
 結局、あんなことを言ったから、あなたに謝らせて、私たちの関係は余計に離れていったよね。
 あの時ああしていれば。あの時こうしていれば。そんなことを考えるくらいなら、今を頑張ればいいってずっと思って生きてきた。
 だけれど、今の私はどう頑張ればいい?
 なにも頑張れない。あなたの重荷になりたくもない。
 ただ、今は……。あなたの夢が叶うよう……。
 今の私が出来ることは、ここからいじらしく願うことだけ。理解ある大人の女性を演じ続けることだけ。
「しあわせになってね」
 彼の後ろで高い声がする。艶やかな女の人の声。私の分からないことば。
『あ、うん……』
 彼が戸惑ったように応える。
 今日で終わるわけではないのかもしれない。
 明日だって明後日だって彼から電話はあるのかもしれない。
 でもいつかこの関係は終わる。
 私たちの関係は、私が願ったように永遠に続いて行かない。
「じゃあ……」
 永遠なんてない。
 誰かが言っていた。
 だけれど、永遠を信じることは出来る。
 あなたが呟いた。
 そんなこと言ったって続かないわよ。
 私が返した。
 もっと私が素直でいられたのなら。そうしたら……。神様。
 彼がやさしく私の中にそっと入ってきて。私たちが繋がることはもうないのかもしれない。彼の痕を私につけられることもないのかもしれない。だけれど、私たちは、今も電話を通して繋がっている。
 この時間こそが永遠に続けばいいのに。
「さようなら」
 どうか神様。私の根性無しって、後悔したくたくなるような泣き声が彼に聞こえませんように。
 お願いだから、お願いだから最後くらい。
『君から電話を切りなよ』
 こらえていた涙が頬に落ちた。
 彼は知っていた。彼が電話を先に切るのを私が待っていたこと。
 気がついていて、いつも先に切ってくれていた。
『またあしたね。I love you』
 え。……アイ?
 彼のこのことばがどうか明日も明後日も聞けるように。
 私と彼を隔てる海に消えてしまわないように。
 願っているから、祈っているから、彼からのあしたを待ち続けているから。私の方から電話は切れない。
 私と彼が一緒になって、海に消える日が来るまで。

【おわり】
矢印過去サイト作品・2019改稿版(初稿2009-01)

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