曖昧ゾーン (33)

第十話 - 2 頁


 学校の最寄り駅で降り、バスに乗った途端に雨が降って来た。傘は持ってこなかった。
 小雨だからやみそうですか。道を曲がり、ガクリと揺れて慌てて手すりにつかまる。
 リュックを背負い直して腕時計を見た。パジャマから着替える洋服に悩んでいる場合じゃないのに悩んでしまった。家族と顔を合わせたくなかったから、モトコが朝ごはんの声をかけて来た時に仮病を使った。遠足の代休を羨ましがられた。顔だけ洗って出かけようと頃合いを見計らっていたら遅くなった。
 佐原君は早い時間の方が家にいると思うのに。
 私っていつもこうだ。鎌倉の駅でホッとしたことを佐原君に伝えようと思ったのに伝えられていない。
 後でうまく言おうとか、ここだとムリとか考えて、「ごめん」と「ありがとう」の言葉だけで一遍に済ませた。
 手すりの棒を握りしめ、唇をかみしめる。今だけは考えるのをやめよう。サハラ古書店に着く方が先だ。

 ラブリー商店街前のバス停に着いた。
 小雨が降り続く中、チラシを片手に持ってバスを数人の後に降りた。
 高齢者たちは折り畳み傘を揃って出して急ぎ足で商店街を歩いて行った。地図がどこかにありませんか?
 すぐ傍の雑貨店らしき軒下に入った。商店街名が書かれた看板を見上げる。カラフルな鳥居のような出入り口だ。お祭りのように提灯がぶら下がり、色あせたガーランドがはためいていた。この前は気が付かなかった。
 人気(ひとけ)がなさすぎる。さっきの高齢者もスタスタと橙色に舗装された道を歩いていくお爺さんだけだ。
 バスを歩いた他の人たちは細道に入ってしまった。この辺の商店街の様子を知りませんけど、今は空いている時間帯ですよね? みなさん出勤の月曜日の朝です。パチンコの音が響いている。少し向こうの花輪が並ぶ店の前にはよく見れば何人かいて、自販機で何か買っていた。誰もいないわけではないことにホッとします。
 この通り全体的に暗い。どの店もまだ開いていないらしかった。しばらくラブリー商店街の様子を眺めていた。
 灰色の商店街だった。橙色に舗装された道だけが目にまぶしい。
 商店街の大型店は、ドラックストアとパチンコ屋なのはすぐに分かった。個人のお店は恐らく数軒しかない。
 後ろを斜めに振り返ると、洋服や小物が雑多に並べられていた。雑貨店というよりセレクトショップですか。
 このお店は今にも開店をしそうでも、半分はシャッターが立ち並んでいる。店先を眺めていると、シャッターには店名や電話番号やホームページアドレスがある。視力は良い方です。店名まで読んでいられませんけど、シャッターが閉まっているせいで繋がっているように見えても、お店は分かれている。
すべてのお店が開けば、十件以上があるのかもしれなかった。
 私はこの商店街が繁盛していると思っていた。今の様子を見ていても、やっぱり繁盛をしていて欲しかった。でも、佐原君の語りをちゃんとふりかえれば、そうではないと言っていた。気にしていたのも分かる気がした。
 どこがラブリーなのですか? なんて思ってはいけません。進みましょう。
 バス停の案内板の脇に古めかしい看板が見えた。戻るために濡れないよう急いだ。セレクトショップの反対側のピンクの建物は、考えるまでもないでしょう、と思っていたら交番だった。こっちからは出入り口が半分しか見えず、人がいるか中まで見えない。そこに聞くまでもありません。というより、私は聞きにくい人なのです。
 地図はあった。ガラス張りの看板の中に今見て来た商店街の玄関口の賑やかな絵や写真と共に張られていた。
 色あせた水彩画だった。ガラスが曇っていてちゃんと見えない。でも、確かにこの商店街だ。
 桜の木が見事に咲いており、提灯がアーチの下に垂れ下がり、品物が通りに突き出していた。家族連れの人たちが買い物をしている。昔はこれだけ繁盛をしていても、今はお客さんが来ないと言っているように見えた。
 胸が痛くなりそうだった。私は佐原君のことを知ろうとしなかった。知っていくのが怖かった。
 失いたくなかったから……。
 知って欲しくなかった。でも、色々と話して知っても欲しかった。どっちも本当だった。きっと同じだった。
 雨が強くなって来た。急ぎませんと。リュックの紐を両手で握りしめる。ラブリー商店街は一本道。その両側に十件ほどの個人店があるのが分かった。“本屋”はひとつだ。道の左側の駐車場の隣だ。一番奥だった。
 バス停から一本道の向こうの説明はなく、“住宅街”とだけ書いてある。本屋さんはすぐに分かりそうだ。
 小雨に濡れるのを避けて店先を急ぎ足で歩く。コーヒーの匂いが鼻を突いた。お茶しか飲んで来ていなかった。
 ウィンドーの前で立ち止まる。レトロな喫茶店。この前も見た。立ち止まったお店だ。
 曇りガラスに映る自分を眺める。水色の丸襟のシャツにグレーのズボン。肌寒かったから白のパーカーを羽織って来た。学校用のリュックと防水のローファーは同じだ。ダサイとか考えたくなった。
 ああ、なにも考えない、というのは難しいです。頭のスイッチの切り替えが出来る人間になりたいです。
 道の向こうの布団屋さんは営業中だった。山本ケンゴのお家でしかありえません。佐原君と山本君はその裏がお家のはずです。今会いたくないです。急ぎ足で通り過ぎ、賑やかなパチンコ屋の向かいになる。こっち側のお店はシャッターだ。“清掃のことなら!”という黄色い文字が視界を横切った。一気に端のお店まで行ってしまおう。サハラ古書店でなかったら、交番まで戻って聞くしかない。
 でも、違う確率なんて一パーセントもない。前に途中まで一緒に来ました。バス停からこんなにかかりますか。
 いつも佐原君が私の方まで来てくれていたのに。遠いなんて素振り見せもしなかった。
 小走りに進んで行くと、向こうから人が来てドンとぶつかった。その拍子に視界を横切ってなにかが落ちた。
「あ、すみません」
 派手な花柄のブラウスシャツに眼鏡の男は、アルコールの臭いがした。パチンコ屋から出て来たばかりのようだった。タバコを吸いながら黒目を回して見下ろして来た。首元をボリボリとかいている。手首の金色の腕時計が目立っていた。もう片方の手には、大きな茶色い紙袋がパンパンに膨らんで下がっていた。あ、濡れちゃう。
「すみませんでした」
 慌てて屈んでタバコの箱を差し出した。触っても濡れているとは思えなかった。
「あの……」
 男はタバコの箱を見てはいなかった。私の顔を値踏みするかのようにタバコをくわえたまま凝視していた。
 視線は胸元に下がっていく。なんでしょうか。嫌な感じの人だ。少し後ろに下がった。私は前に進みたいのに。
「ちょっと」
 タバコの箱を取るのと同時に手首を捕まれた。反射的に避けると上でグッと止められた。男のシャツの袖が捲りあがり、毛深く太い手が見えた。
「な、なんですか!」
 かなりの大声を出してしまった。店から出て来た別の男性がこっちを見ている。スキンヘッドで怖い。
「嬢ちゃん、カノジョだよね?」
「は?」
 手首が痛い。よく聞き取れなかった。手を下におろそうとしても、男は上に持ち上げて見て来るだけだ。
「離してください!」
「いや、俺の話を聞けよ」
「タバコは返しました」
「嬢ちゃんが悪かったわけでもない」
「佐原さん、またね」
 そう呼ばれた男は向こうを見、スキンヘッドの男に手をあげた。相手も手を振り返し、反対方向に去って行く。
「さてと」
 ため息をついてタバコの灰をコンクリートに落とし、男はこっちに向き直り、見下ろしてくる。
「サトコちゃんだったか?」
 手を離された。顔をあげて男と目が合うと、ニカッと笑った。
「あ、お父さん」
 思わずレトロな喫茶店を振り返って目の前の大柄な男性と見比べてしまった。この前と印象が違うけど、きっと花柄の縁取りの眼鏡のせいだ。
「お父さん! 良い響きだね! 誰にもそんな風に呼ばれたことはないからなぁ。やっぱり娘が欲しかった」
「なにを言っていますか」
「思ったより強気だね」
 いいえ、思わず思ったことを口にしてしまっただけです。紙袋をゴソゴソとやり、前に差し出された。
「使え」
 白いタオルだった。頷いた。じっと見降ろしてくる。タバコとお酒の匂いが鼻につく。明らかに距離が近い。
「サハラ古書店に行こうと思っていたのです。佐原君いますか?」
「ははーん」
 面白そうに笑ってズボンのポケットから携帯電話を出している。なにかを察した、とでも言いたげだった。

ページのトップへ戻る