曖昧ゾーン (31)

第九話 - 3 頁


「そっとしておいて」
 聞かないで。放っておいて。ここから自分の部屋に一気に帰り、布団に潜り込んでじっとしていたい。
「なんにも話してくれなかったら分からない」
 佐原君の無表情さが怖い。
「分かってなんか欲しくない」
 泣けて来た。限界だ。誰にも踏み込んで欲しくない。いつかあんな風に嫌われて、わけがわからず笑われて、また失うくらいならひとりでいい。寂しくてやっていられない気持ちになっても、その方が傷つかない。
「俺には話して」
「誰にも踏み込んで欲しくないの」
 震える声で前に押し出した。分かって欲しい。分かってくれそうにない。佐原君のせいもあると言いたくなる。
 私に告白をさせたのは誰なの? 良い気になってバカなの? 分かっていたくせに。自分で自分に言いたくなる。
 あんなに努力をしたのに。まだバカバカ言われる。なぜ、こんな目にあわないとならないの。理由はないの?
 私が私だから……。理由がそれしかないのなら。今この瞬間からひとりになりたい。
「だからどうして?」
「言いたくないと言っているから」
「ああそうかよ」
 聞いたことのない冷たい声だった。手を離される。コンクリートの地面を見下ろす。佐原君の息遣いを感じても見上げられない。佐原君は手に提げていたお土産の紙袋をゴソゴソとやり、スニーカーを出して地面においてくれた。橋を渡って高齢の男女数名が歩いて来た。
「……」
 自分の紺色のスニーカーが滲む。涙は出ない。声も出ない。知られたくなかった。恥ずかしい。みっともない。
 重い左足を持ち上げ、裏に着いた石を払い、強引に突っ込んだ。沈黙が重い。遠足の途中でこんな風に駆け下りて来てしまって、どうしていいのか分からない。でも、もう戻れるわけもない。さっきまでいた元の居場所に。
「ごめん、帰る」
「うん」
 抱きしめられた。頭を撫でられる。腕の中で心臓の音を聞く。穏やかな年長の男女の声と共にぬるい風が体の間をすり抜けていく。この前の下駄箱の前より、すべてがリアルに感じた。弱く抱きしめられていたから……。

「寒い? 駐車場まで歩ける?」
 佐原君は、うつむいて頷くだけの私の手を強く繋いで引っ張り、駐車場まで一緒に歩いてくれた。
 私は寒気がして震えていたわけでもないのに、ものすごくゆっくり前に進んでいたし、なにも喋らなかった。
「ここに座っていて。水分を取った方がいいよ。保険医に送って貰おう」
 駐車場の手前のベンチは空いていた。リュックを後ろに引っ張られながら言われ、言われるままに座った。
 上からの強い視線に押される。佐原君は更にリュックを後ろに引っ張っている。ああ、おろせと言っていますか。促されるままに水色のリュックを下ろし切り、タンブラーを出して冷たい麦茶を口に含んだ。
 佐原君は頷いて駐車場の方へ歩いて行った。車の窓を叩くと、保健室にいつもいる女の先生が下りてくるのが見えた。
 私は生徒会の会合で、なにの時のための車が駐車場にいると説明を受けていた。その車まで案内をしなければならない学級委員だったのに、どれが学校の車かも分かるわけがなかった。佐原君は奥にある白いワゴンが学校のだとすぐに分かった。近くまで行けば、学校名がドアに入っているのでしょうけど……。
 そんなことを考えていられる自分が不思議だった。でも、いつも通りのことを考えていないと、また彼らが追いかけて来るのではないのか、うちの学校の生徒たちに言いふらすのではないか、その恐怖にやられそうだった。
「サトコ、ワゴンでなく、もう一台の車を出してくれるって。普通車の方が乗りやすいでしょう? 行こう」
 頷き返していないうちに佐原君はリュックを私の分も片側にかけて持ち、左の手首を痛くまた引っ張った。

 車の後部座席に乗り込んだら、あっという間に出発した。
「シートベルトは閉めた? 車を出します。気分が悪くなったら、すぐに言ってね。保健室の先生はワゴンに残って、この後の対応をするの。副担任の役目と聞いていたでしょうけど、具合が悪くなった生徒が他にもいてね、対応に送れていたから、私が送ることになったの。話し難くてごめんなさいね。急に温度が上がったからね」
 学校の女性事務員は知らなかった。それでよかった。小池先生が送るなんて言ったら電車で意地でも帰った。
「先生、寝ていても平気ですか」
「眠れちゃったらその方がいいわよ。帽子も必須にするべきだったわね」
 佐原君は隣で手を握ったまま窓の外を眺めていた。元彼氏とのケンカと勘違いされているならその方がいい。
 車に乗った時、ちいさいクッションがドア側にひとつずつ立てかけるようにして置かれていた。よりかかる。低く流れるラジオの音がありがたかった。お昼の十二時の時報が鳴り、天気予報と交通情報を告げるアナウンサーの声だけが車の中で響いた。淡々と時間が過ぎる。
「顔が赤い。大丈夫?」
 おでこに手を触れられる。冷たい手だった。佐原君の無表情な顔を見返すと、世界がにじみ続けそうだった。
 見つめられている目から避けられもせず、声も思うように発せられず、頷いて目を閉じた。
 カーラジオから流れる洋楽を聴きながらシートに持たれていると、ひざ掛け毛布を掛けられたのが分かった。
 いつの間にか眠りの中にまどろんでいた。眠ると思っていなかったけど、眠れそうだった。
 今はなにも考えたくなかった。佐原君に手を握りしめられて、毛布にくるまれていると、日曜日の勉強会の時のようだった。あれは……。まだ先週のことだ。高校三年生になって学級委員になったのも、その一週間前のはずだ。まだ今月が折り返し地点だ。信じられない。毎日が平凡だったのは、もう数か月くらい前に感じた。そっと息を吐く。
 出来れば幸せな夢が見たい。ううん。なにも見たくない。現実と夢の差に耐えられなくなりそうだ。

「鵜飼さん?」
 大人の女性の声がして、肩を揺さぶられて起こされた。目を開ける。視界が白くかすれている。佐原君が斜め上にいた。反対のドア側に深くもたれて寝ていた。
「鵜飼さん、お家はあっているわよね?」
 運転席から声をかけられて身体を起こす。あちこちが痛かった。窓の外を見ると、うちの門の前だった。
「どなたもいらっしゃらないの。鍵はあるわね?」
「はい……。寝れば治ります」
 声もかすれた。具合が悪いはずがないのに、熱がある時のようだった。身体の全体のふしぶしがきしんで、足が地に着いた感覚がない。江の島の坂を駆け下りていた時からだ。スニーカーが脱げた時も痛みとかの感覚が他人事のようで、今も現実味がなくて痛みが消えて浮いていた。
「誰かに連絡をしないとならないの。ご両親の携帯電話番号を教えて貰える?」
「やめてください。二人とも仕事中ですし、うちの親がそんなのを持っていません」
 即答にバツが悪いような顔をされる。母は朝食の時にいつも通りバイトだと言っていた。夕方まで帰らない。
「緊急連絡先はどこになっているのかしら?」
「分かりません」
 本当に知らない。職場? でも父には店長としての立場がある。娘の意味不明な具合で帰ってこない。
 携帯電話なんて妹のモトコが熱心に交渉をしなければ持たせて貰えなかった。父も母も仕事はしているのに、接客業に必要がないと言い切り、自分が持っていないから説得力がある。ノートパソコンは父親が勤務する時に持ち歩いていて、母も夜にネットサーフィンを出来ているから問題はないのだ。うちに帰って家族と話す余力は残っていない。誰もいない方が良い。シートベルトを外した。
「サトコのことは親友代表に具合で先に帰ると伝えさせておいたから、ちゃんと休んで」
 隣からリュックを渡される。ずっと好きだった佐原君の顔。陰ってしまっている。言葉を掛けたいのに……。
「鵜飼さん、それだったら私から担任の安達先生に伝えておくわ。お家の方が帰って来たら学校の電話番号に連絡をして貰ってね。五時までにお願いね。今日は全学年が遠足だから、職員室も早く閉めるのよ」
「分かりました」
 自動的に返事をすると、事務員の人は微笑みかけて来た。それだったら、どれですか。睨みたいとしか思わなかった。
「あ、ごめんなさい。今、報告をしたら帰って貰えるからね」
 携帯電話のバイブに振り向いて画面をいじった後、運転席から降りている。
 私もなにが分かったのだろう。母は五時までに帰らない。パートが終わるのが四時半だ。でも、帰りに買い物をして来なければ、五時頃までに帰って来る日もあるのだ。嘘じゃないなんて考えている自分がいた。
 具合が悪いのに私が職場に連絡しろというのか。それとも、学校から連絡をしてくれないで欲しいのは分かってくれたのか。
 事務員の人はこっちに回って来てドアを開けてくれた。リュックを両手で握りしめて車から降りた。
「佐原君」
 コンクリートを足元に感じて話しかけたら、佐原君の横顔はすごく冷たい気がした。当たり前だ。怒っている。
 二人とも天候のせいで具合が悪くなったとまで教師に通して、一緒に帰って来てくれたのに。話して欲しいって目を見てちゃんと言われってくれたのに……。
「ごめん。ありがとう」
 そう言うだけが精いっぱいだった。返事はなかった。ここでも逃げるようにして速足で玄関の中に入った。
 バタンとドアが後ろ手に閉まり、オートロックがかかる音がした。車がゆっくり走り去っていく音が聞こえる。
「ごめんね……」
 呟いた途端、玄関マットの上に座り込んだ。話せなくってごめん。勇気が出なくてごめん。傷つけてごめん。
「こんな人間でごめんね」
 言葉を吐き出し、やっとため息をついて泣けた。薄暗い玄関の中では抵抗もなかったし、今なら誰にも責められはしない。
 水色のリュックを強く抱きしめる。佐原君が自分のドア側にリュックを一緒に置いてくれていた。
 佐原君は秀美や公香のことも気にしてくれたのに。親友代表……。山本ケンゴ君をそう呼ぶのは嫌がっていたのに。みんなよくしてくれるのに。私のことを好きだって言ってくれているのに。私も好きだと思うのに。
 それでも信じられなくて怖い。何度も自分を変えようとしたけど、似たようなことがあると前の感覚に戻る。
 専門書にも自覚をすることが大切だと書いてあった。でも、自己分析をして、心の底から負の勘定を認めても楽にならない。不安でたまらなくなる。プラスの思考に持って行こうと必死にもがいているのに、マイナスの感情がマイナスの行為や冷やかしを呼び寄せ、完全なマイナス側へと自分が落ち込み連鎖し続ける。そしてベッドに泣いて倒れ込むことの連続だ。何も変わっていない。少しは変わったのかも知れないけど、その少しだけの変化では一気に引き戻されてもしまう。どうしようもない。
 どうしようもないって、私が一番、最悪だ。涙にもならない。声にならない、言葉に出来ない感情があふれた。
 それでも、言いたい。言わせて欲しい。一緒にいてくれてありがとう。抱きしめてくれてありがとう。

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