曖昧ゾーン (1)

プロローグ


 望むものは平凡な日常。
 繰り返される毎日。
 優しく笑いかけてくれる人。
 温もりを感じさせてくれる君。

第一話 春が来た


 スプリングハズカム。高校三年生に問題なくなれれば、頭の上に桜もたくさん咲くようです。
 春は苦手な方だ。式典、クラス替え、教室移動、名前順の席、クラスの係や学年単位の委員決め、交流会、春の遠足。どれも楽しみな行事に聞こえたことがない。
「鵜飼(うかい)さん、頭の上がすごいことになっているよ」
 隣で新入生たちを誘導しつつ、笑顔で言って来た佐原君を見上げると、桜の花びらを手のひらで振り払われた。
「それ重くない?」
 佐原君は私を見続けている。それってどれですか? よく分からないままに返事をした。
「うん……。わりと」
「あ、そこの新入生の人たち、新校舎はあっちね。注意書きをちゃんと見てね」
 新入生と視線が合う。私が持っていたプラカードが重くないのかを心配してくれたのでしたか。
「ありがとうございまぁす!」
 佐原君に声をかけられた新入生の女の子たちが笑顔で答えて去っていく。私もありがとうと言うべきでした。
「そこの君、長い髪は黒いゴムで結んでおかないと注意されちゃうよ。鞄のシュシュも髪に結ぶと校則違反」
「あ、は、はい。先輩」
 女子生徒は、佐原君に屈んで話しかけられて頬を赤らめている。素直だなあ。後ろに視線を感じて校舎を見上げる。やっぱり教室前の窓からあの人たちは揃って覗いていた。私の方は見ていないみたい。よかった。注意をしておかないと。変になんかの的にされたくない。
「先輩、おはようございます!」
「おはよう。一年生? 始業式にリボンを結ばない方がいいよ」
 隣でまた新入生に忠告を明るくしている。佐原君は、偉いなあ。まさに学級委員に選ばれるべくして選ばれた。くじ引きに外れただけの私には、新入生たちに笑顔で挨拶を自分からしたり、視線を合わせたり、校則違反を注意したりなんて、絶対に出来ない。それどころか、次々とバス停の方から来る新入生たちにちゃんとした笑顔も返せていない。なにやら見られると、睨み返してしまいそうだし、頬がこわばりそう。そっと息を吐き出した。新入生たちは、ナイスガイで頭が良い佐原君に向かって挨拶をしている。論外な私は、頷いておけばいいでしょうか。
 だって、今もあの人たちは、校舎の四階の端の窓から数人で見下ろしている。きっとこの様子を熱心に見続けている。あなたのファンクラブの人たちの視線だけで怖いです。
「始業式が行われる体育館はあちらです」
 私が持っているプラカードの太文字の通りに言葉を繰り返した。他に簡易に校内の地図が描かれているだけでなく、手持ちの棒には、赤い矢印が校門前の立ち位置で変えられるようについてもいる。これは歴代の学級委員の案内係が使っているもので、隣の資材置き場にあるから、と担任教師が職員室で不親切に説明をしただけだ。
 分かるだろ? と、佐原君と私を見比べる眼鏡の奥の目が言っていた。椅子も少ししか回さず、忙しそうにプリントを数えながら束ねていた。資材室? 職員室の隣の電気がついていない部屋の案内プレートを見ても、私の記憶にはなかった。担任も私のほうなどろくに見ていなかった。
 明らかに佐原君のお役には立てないから、率先してプラカードくらい持って来た。私たちが校庭の桜の木の下に集合した時には、他のクラスの担任教師が既に割り振っていて、ここに立ってね、と言われただけだった。
 この場所は、風が吹くと、市の天然記念物にまで指定をされている桜の木が多く植わる公園から、ちょうど花びらが舞って来る。変な視線だけでなく、上から虫まで落ちて来やしないかと気になる。くしゃみをしてしまいそうなのをうつむいて我慢した。肌寒い。カーディガンは校則違反ではないのだから、脱いで来なければ良かった。ああ、集中が出来ない。こんな風では学級委員が務まらない。
「おはようございます!」
「……おはようございます。案内板を見て始業式の体育館に向かってください」
 佐原君の後から掛け声だけでも出してみた。新入生のみなさん聞いてください、頑張って大きな声を出しました。
 うちのクラスは、学級委員の立候補がなかったから、担任の提案で学級委員をくじ引きで決めた。どうやって学級委員の男女を決めるのかで揉めていた他のクラスより、ホームルームは早く終わったらしかった。佐原君を職員室の前で待たせたのは私だ。お手洗いで校則違反の薄い水色のスカーフから、赤紫で校章が刺繍をされている指定のネクタイに変えるだけで時間がかかってしまった。
 職員室前の廊下でこっちの方を見て待たれていた。それだけで声が出ず、足が止まってしまった。
 うちの学校、細かいことにうるさいよね、佐原君は笑って言って、職員室にお辞儀をしながら入って行っただけだった。学級委員は、始業式前に当番があるから、職員室に来いと言われても、筆記用具は? カーディガンは? このスカーフは変えるべきですよね? 担任、ドアに一番近い席の私の目の前を通って行く時に必要な持ち物くらい言ってくれてもいいでしょう? ひとことくらい声をかけてくれると思ったのに、なにも言ってくれず、見送ってもしまった。なにをどうしていいのか分からない私とは大違い。
 メモ帳とボールペンだけはポケットに入れて、職員室に行こう、と佐原君が声をかけてくれなければ、私は席に座ったままだった。メモ用紙? そんな洒落たものは持っていなかったので、ルーズリーフ用紙をリュックから探して出し、折り畳み、ボールペンとポケットに入れて、慌てて佐原君の後を追った。
 佐原君は、同じくじ引き学級委員でも格が違う。三年連続、生徒会の役員だ。私とやるのは迷惑だ。
「サトコ、頑張っている?」
 聞き慣れた声に振り向く。秀美(ひでみ)が二階の渡り廊下のところで、公香(きみか)と手を振って来た。
「わりと……」
 ここからだと大声を出さないと聞こえないか。でも、わりと見た目より重いプラカードを持って、頑張っています。笑顔を返すと、ジュースのペットボトルを掲げて来た。新入生以外の生徒たちは、始業式まで自習の時間だ。担任が数学の安達(あだち)先生だったから、計算のプリントを早速配っていた。学級委員は、放課後までに解かねばならない。気が重い。
「あ、いいなあ。俺も喉が渇いた」
 隣で佐原君が言って来る。飲み物を買っていていい時間ですか? 私たちはそんな風に親しく話す仲でしたか。
「サトコ、分かった!」
 秀美の大きな声に振り向くと、ぶんぶんと手を振っているのが見えた。なにが分かったのですか? 勝手に理解をして、公香と楽しげに話しながら去って行かないでください。気になるではありませんか。
「すみません、私、一年一組で先に教室に行きたいのですけど、校舎のどこから入ればいいですか」
 はじめて新入生に声をかけられた。手元に持っているプリントを覗き込む。さっき職員室を訪ねた時、案内する際の注意書きが書かれた両面刷りのプリントと一緒に担任に渡されたのと同じ地図だ。
「あ、普段使っている校舎は、奥のひとつなので、そこから入って手前の教室が一組ですよ」
 秀美たちが戻って行った校舎を指さす。旧校舎へは、渡り廊下で繋がっているけど、クラスの教室はない。
 新入生は頷くだけで行ってしまった。ポケットからプリントを出して、今の女の子が持っていたのと同じ校内見取り図を開く。うちの学校は、バス通りに沿ってしか出入りが出来ない。校門から見ると、中央に銀杏並木がある。その広場を挟んで新旧校と、体育館と図書室の建物が向かい合っている。さっき集合した桜の木も一本だけある銀杏並木の奥がプールと運動場だ。裏庭に行く以外に細い道を利用する必要はなく、コの字に建てられている。迷いようがないと思っていた。でも、校舎内に来たこともない年下の子たちに説明を実際にするのは、難しい。
「あつい! だいぶはけて来たね」
 前に出て親友生たちを誘導してくれていた佐原君に振り返って言われる。アイロンがよく効いている紺色のブレザーの袖を捲り、腕時計を見ている。始業式まであと三十分くらいのはず。その前にお手洗いに行っておきたい。
「鵜飼いさんも喉が渇かない?」
 長めの前髪をかき上げて、爽やかな笑顔で私に話しかけて来ないで欲しい。上からの視線が恐ろし過ぎる。何度も振り向く気にもなれない。今、目が合っただけで、目をつけられそう。佐原君、見続けられても、どう返していいのかも分かりません。
「え、と……」
「なにか買って来てよ。ふたりぶん」
 え? 二人分? 見上げると、お願いね、とポケットから手を差し出され、反射的に手のひらを差し出すと、小銭をコロンと何枚か落とされた。
「せんぱぁい」
「どうかしたの?」
 また佐原君は、新入生の女の子たちに囲まれて、なにか聞かれて笑い返している。みんな楽しそうだ。
 私は、お手洗いに行きたいくらいなので、喉が渇いていません、と言えない。両手で持っていたプラカードを校門の壁に立てかけ、地図のプリントを折ってコインと一緒にスカートのポケットに無理やり入れた。女子のセーラー服の制服は、気に入っているのだけど、スカートにひとつしかポケットがないから不便だ。紙とボールペンとハンカチとティッシュで目一杯に膨らんでしまっている。
 図書館の方に歩き出した。学校内で一番新しい建物だからお手洗いが最新だし、購買が一階フロアにあるのだ。
 そっと斜めに振り返ると、佐原君は、男女の新入生たちに更に囲まれて、輪になっていた。みんなの笑顔が眩しい。春の木漏れ日によく似あっている。絵になるなあ。佐原君は、初日から新入生にとってもアイドルだ。
 喉が渇かれましたか。私は緊張してしまってそんなことを考える余裕はなかったです。
 ここは県内でトップの偏差値を誇る公立高校だ。私の第一志望高でもあった。手前の旧校舎と新校舎は渡り廊下だけで繋がっていて、音楽室や部室棟がある。二階にだけ大きい自販機が置かれてもいる。クラスの教室は、一年生から三年生まで新校舎を順番に上の階にあがって使っている。校則は緩く、最寄り駅から歩くとニ十分はかかる。でも、バス停も校門のすぐ傍だ。恵まれた環境にある。就職、大学の進学率は共に高い。下調べを入念にした結果、なんとしてでもこの高校に入ると決めた。
 肩から花びらを払い落としたら、今度はセーラー服のスカートについてしまった。レベルの高い高校に合格をしたのに。どうして私は変わらず鈍いのでしょう?
 佐原君が学級委員をやるのだったら、ファンクラブの女の子たちの誰かが立候補をしていた。どうして私なんかが佐原君と並んでいるの? 今頃、彼女たちもジュースを買いに行っちゃって、言い合っている決まっている。
 いやだなあ……。特に田村さんを中心とする三人組と同じクラスになってしまった。あの人たち、苦手。秀美と公香と三年連続一緒のクラスに慣れて安心をしたのに。どこが“当たり”のくじなのでしょう。絶対に外れくじだ。

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