遠くへ (1)

電信柱

1. 偶然
2. あるいは
3. 必然

1. 偶然


 銀杏並木の方に住む、同じ町内かもしれないご近所さん。それだけは知っていた。
 それだけは、というのも正しくない。
 なぜなら、町内周辺を歩いていれば、彼のことを見かけるだけだったから。
 私が最寄り駅前の弁当屋で販売員として働いているから、会う、ううん、お弁当を彼が買いに来てくれもしないから見かける、っていうだけのことだったから。

 今日も彼は仕事帰りにドラックストアで買い物をしている。
 カゴを持って立っている。化粧品コーナーの鏡に映る彼を眺めていた。何かを探して店内を回っているようだった。
 私と彼は最寄り駅が同じだ。私は家から朝の早い時間帯に駅前の弁当屋まで普段着で通勤をしている。銀杏並木の道の前を通ると、その向こうからスーツの人たちがひっきりなしに歩いて来る。その中に混ざって彼の茶髪が見え隠れするのを見つける。駅まで五分程度の平らに続く道のりを一緒に歩くのだ。
 彼の茶髪も服装もたいして変わらないから、すぐに分かる。無地のパーカーにくたびれたジーンズのズボン、明らかに履き古しているコンバースのスニーカー。ズボンと同じ色合いの使い古したリュックを右肩だけで背負い、のったりとした足取りでいつも歩いている。
 私が弁当屋の脇にある従業員専用出入り口のドアを開ける時に振り替えると、彼はズボンのポケットから定期入れを出して、慣れた手つきでタッチアンドゴーをして、改札口の人ごみに飲み込まれて行く。
 平日の毎朝、スーツ姿で速足に歩いている人たちに混じらず、マイペースに歩いている彼を横目でそっと確認する。
 制服のように着回している普段着しか知らない。明らかに学生の年代ではない。ぼろい一軒家が並ぶ通りにある私の家の近所に住んでいる。
 何か話したことはないし、目が合ったこともない。遠くにいるだけの人。

 毎日見かけていても、斜めや後ろ姿を捉えるだけだ。彼の視界に私が入っているとは思えない。
 彼のパーカー姿は、恐らく通勤着なのだ。くたびれたジーンズやスニーカーも、同じ色合いで揃えているのだろうリュックも、お洒落なヴィンテージ品であり、洋服屋の勤務なのだ。私と同じ時間帯に通勤をして、帰宅もしているのだから、平日フルタイムの正社員。でも、目つきが怖いし、接客業に見えない。筋肉質な体型だからバックヤードの仕事をしている。などと、自分が彼を見つめ続けてついて知り得たことから、勝手に想像をして決めつけて楽しんでいるだけだ。
 私は、最寄り駅の沿線上の駅前によくあるチェーンの弁当屋の高卒の正社員。しがないレジ担当の販売員だ。月額の手取りは、この種の販売店員に一般的な額を貰っている。立ち仕事でも二十万円に満たない。年末に給与の倍額のボーナス支給。土日が正社員は休みだし、賞味期限ぎりぎりのお弁当の賄い支給と、ロッカールームでウォーターサーバー飲み放題がメリット。目標は七年連続の皆勤賞として貰える年間三万円の賞与。パートの主婦の従業員が多い最寄り駅前の店舗は、店長と私しか店舗に常任している正社員がいないから、周囲と私が揉めることはないに等しい。人間関係に特段の苦労はないけれど、会話の楽しみがあるわけでもないし、変化もない。彼は日々の癒しだ。

 リップクリームをカゴに入れて振り返ったら、彼とぶつかりそうになった。話しかけるなんていう間柄ではない。目も合わず、彼は棚に手を伸ばしてシャンプーを手に持ち、レジに向かって行ってしまった。さっきから探していた品らしい。私も清算をしないと同じ道のりを帰れなくなる。
 こんな中で彼の休日の格好までどう知ったのかというと、土日に同じ格好をして、弁当屋の向かいのこのドラックストアに買い物に来る彼によく会うからだ。
 最寄りの駅前には、大きい二階建てのドラックストアがひとつだけある。年中無休に夜遅くまで営業をしていて、例外なく混んでいる。朝早く通勤をして夕方に帰宅する私、同じ早番のシフトなのだろうにお弁当を買ってくれない彼とは、通勤の帰りにこの店でよく一緒になる。
 帰宅時の彼は、いつもの格好にくたびれたキャンバス地の大きな袋を肩から下げている。キャベツや大根まで袋から突き出している。スーパーは駅周辺にないから勤務先の方で買って来ているはずだ。帰り道とは反対側にあるスーパーで買い物をした後、ドラックストアに戻って来ているわけがない。駅からその店の前を通っているのに、二度手間になるし、この町のあちこちを歩いていることがあるなら気がついている。
 駅前のドラックストアは、土日に消耗品の安売りをしている。最寄り駅周辺の各店舗は、休日になると、日用品が値引かれることが多い。みんな横浜に出てしまい、お客さんが少なくなるから呼び込むためだ。
 休日でもこのドラックストアで会える確率が高い。彼は、私や主婦たちが買い物に出かけるのと同じ昼頃に表われ、店前の棚に並んでいるトイレットペーパーやラップやホイルをカゴに入れ、カロリーメイトやエネルギーインゼリーや百円を切るお水やお茶の他、板チョコやガムなどのちょっとしたお菓子類もレジ周辺で足し、薬剤師に症状を相談して風邪薬を買って帰るからだ。
 だから、彼が他の駅に住んでいる、それらが通勤服兼普段着でない、あり得ない、という結論に達しただけだ。
 私が清算後、レジ横のカウンタースペースで、斜め掛けバックの中からエコバックを出して広げ、買った品物を入れ、中身を整理していたら、ごほごほと咳をし続ける彼が横を通り過ぎて行った。買ったばかりのマスクを袋から出してつけながら外に出て行く。腰を追ってかなりつらそうだった。そんなにひどい風邪にかかってしまったのか。
 ドラックストアがあるビルの三階には内科が入っている。医師の診察を受けに行かないのだろうか? いかにも病院を嫌いそうなタイプに見える。こんな風にしか彼のことを考えられる要素がない。
“頭痛や喉の痛みの症状からきて、咳がひどく出る風邪が流行っています。うがい手洗いをこまめに欠かさないようにしましょう”
 店内放送でアナウンスしていた。私が手に提げているレジ袋の形をした雑誌付録のエコバックのなかには、彼が買っていた風邪薬とマスクが同じに入っている。私は特に風邪をひいていないけれど、彼と一緒に買って来た。
 夕方になって肌寒くなった帰り道。先を行く彼を追い越してしまわないよう、帰宅していくスーツの人ごみに紛れ、ユニクロの値引き品から選んだコートにズボン姿の私は、彼の後ろをゆっくりと歩いていた。
 私は風邪なんて滅多にひかない。それがいつだったのか遠い記憶となって思い出せないほどだ。
 健康を維持できず、しばらくは布団の中で休んでいるしかないなんてとんでもなかった。でも、今は風邪をひいても問題はなくなった。皆勤賞続きだから有休休暇も余っている。明日は土曜日だし、引いてしまっても構わない。必ず彼と同じ型の風邪にして。

 もう夢を何も見ないと思っていても、彼を好きになるのなんて、また会いたいと思うのなんて、簡単だった。
「そんなことに負けない。俺は、俺の夢を諦めないから!」
 忘れもしない今年のお盆休み明け。いきなりの大声に振り返り、商品が立ち並ぶ棚の間から向こうでまだ何か叫び続けていた男性を見た。
 長めの前髪をかき上げ、険しい顔をした彼と目が合ったような気がした。
「……だから、諦めなければいい。それだけのことだ。絶対に!」
 携帯電話を床に投げつけるのかと思った。乱暴なしぐさでボタンを押して切っていた。
 この人。何を叫んでいるの? 周りも騒がしいけれど、ドラッグストアの中なのだ。
 彼は怒った調子のまま健康食品を棚からいくつか取って腕に抱え、レジの方に歩いて行った。
 ずんずんと人ごみをかき分けて進んで行く。彼の背中を眺めていた。周りの視線を全く気にしていない。強い人だ。
 私も自分の夢が遠くに行ってしまうまでは、あんな風だっただろうか?
 負けない、諦めない、絶対に叶えてみせる、何度も同じように強く言っていたのだから。
 でも、遠くへ行ってしまった。
 家族に応援をして貰ってもいた。妹と同じ部屋では専念が出来ないだろうからって、私の勉強のためだけに納戸をあけて、質のいい机や椅子を買い揃えてくれた。
 妹は勉強が嫌いだからって、いやな顔ひとつしなかった。友だちとの長電話が楽しみなのに、うるさくしないよう気に掛けてもくれてもいたのを知っている。
 夢を諦めて弁当屋に勤め出してからは、二度と何かを諦めないとか誰かに負けないって思うことはなかった。
 自分の希望の職業に就くためにスケジュール管理をして成功した先を思い描いたり、モチベーションを維持するために内容は同じスローガンを立てて繰り返し言い聞かせたり、考えにふけってその場に立ち尽くしたり、もう絶対にしないと決めていた。
 でも、彼の叫び声だけで何も考えられなくなり、その場から動けなくなった。彼の背中を見つめたまま今がいつかも分からなくなった。
 まだこんなに惹き付けられてしまう何かがあるのかと驚いた。夢にがむしゃらに向かっていた頃と同じように考えない、思い出しても悔しく苦しいだけの過去を二度と振り返らない、自分自身に無意識に課していたことに気がついた。
 週末セールのドラックストアで、電話の相手に叫んでいる彼をはじめに見かけた時、私が買いに行ったのは、お気に入りのシャンプーだった。切れてしまっていたのに、彼と同じ風邪薬を薬剤師から買って、慌てて追いかけて帰った。買い物の目的を忘れてしまった。彼の強い背中をもっと見つめていたかった。
 駅前のドラッグストア。私には特別な場所なの。

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