後編
忘れられない人がいた。
その人は家庭教師だった。
初めて僕を見た時、やわらかくふわりと微笑んだ。
握り締めた手のひらは、信じられないほど細くて弱かった。
僕をそっと見つめて来て目が合うと、すぐにそらしてうつむいて、ちょっと笑う。内気な感じが好きだった。
どうにかしてこっちを見て笑わせたいと、僕は毎日考えていた。
付き合っていた彼女を泣かせても、家庭教師の彼女が目の前から消えても、三か月にも満たない片思いの時間が忘れられず、七夕の夜になるとあの河原に行った。
彼女は七夕の夜になるとやって来る。ふたりで花火を見上げた思い出の場所に。
あの日に着て来てくれたのと同じ浴衣を着て、下駄を鳴らしながらやって来る。
ひとり花火を見上げて、彼女は涙を流すのだ。
そんな彼女を見るたびに、僕の想いはまだ諦めなくてもいいと思えた。
僕のひとりよがりかもしれなかった。それでも、どうしても彼女に僕を真っ直ぐ見て笑い返して欲しかったから、話しかけたいのを我慢した。今の僕じゃだめで、もっと大人にならなきゃならなくて、必死の思いで志望大学に合格をして、二十歳になった。彼女に振られた後にどうしたかという話を彼女に聞いて欲しかった。僕がなにか見つけるたび、なにか思うたび、話したいのはいつも彼女だけだった。
二十歳を越えて塾でバイトを始めるまでは、大学に行きながら教員になるための勉強をたくさんした。彼女と同じような女性を見かけても間違えないし、他の女の子なんか全く目に入らなかった。
彼女だったら、どれだけ変わっても絶対に見間違えないと思うのに、彼女に似た人を見かけるたびに確かめずにはいられなかった。彼女も使う可能性がある駅で降りると、特にそうだった。繁華街や飲食店内で見渡して、彼女の姿を探していた。そんな偶然あるわけがないと、自分で自分を苦笑していても、心のどこかで期待をしていた。七夕の夜にあれだけ願ったのだから、と……。
どうしてこんなに小さい町なのに、七夕の夜のあの河原でないと彼女に会えないのか。
まるで僕らは彦星と織姫だ。
しかも、七夕の夜なのに話すことも許されない織姫と彦星。
僕は七夕の夜、毎年祈りながら河原に走った。
お願いだから、誰のものにもならないで。あなたが応援してくれた通り、僕があなたの母校でもある大学に入るまで。僕が二十歳になるまで。僕が学生バイトであっても教師として働けるようになるまで。僕が稼げるようになるまで。
お願いだから、来年もこの場所にひとりで来て。
木陰から彼女を盗み見続けた。
凛としたたたずまい。綺麗な首筋。華奢な体つき。あの高い声が今にも耳元に聞こえてきそうだった。
花火なんかちっとも見てはいなかった。その音すら耳に入らなかった。
祈った。七夕の夜に雨が降らないように。花火大会が中止にならないように。
晴れの夜空に咲く花の下、彼女に今年もそっと会えるように。何度でも七夕の夜まで数え上げ、夜空を見上げるたびに同じことだけを祈り続けた。届け。僕だけの織姫に。
「忘れたことなんかなかったよ」
彼女は涙いっぱいの瞳で僕を見上げて、そして笑った。