明鏡止水

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読み切り完結


 私のところに純粋なものは流れてこない。

「高梨サヤさんに『常識がなってなさ過ぎる』と言われて、ものすごくショックだったのです』
 ショックだったのは彼女がそんなことを社長に告げ口したことではない。
 私がそれを派遣の彼女に言った記憶すら全くないということだ。かわいくて周りからいつも笑顔を向けられていた。お茶を入れても笑顔を向けてもらえなくなってしまった私とは大違い。だからと言って彼女に嫉妬していたわけじゃない。羨ましいとは思っていた。悔しいとか失礼と思っていたわけじゃない。そんなことを言っても誰も信じてくれないかもしれないけれど。

「あの人はさあ、会計総務の正社員だからお高くとまっているのよ」
 帰り道、彼女は私の同期の営業にまでそんなことを言っていた。
 同期の男性と特に仲が良くなくても、職場で一番話して来ている。同期の返事が聞きたくなくて、彼らの後ろに私がいることを気が付かれる前に道を曲がり、喫茶店で時間を潰して駅に向かった。
 彼女に私はそう見えるのか。そんなつもりないのに。仕事が出来るのは悪いことじゃないのに。確かに男性陣の仕事にまで口を出すことはなかった。黙っていればよかった。
 でも……。古き良き時代の戦略でやっていたって、江ノ電グッヅが売れ続けないのは目に見えていた。だから思わず言ってしまった「だけ」なのに。

 江ノ電の二両編成の車体がホームに滑り込んできた。顔に掛かった髪の毛を押さえながら乗り込んだ。
 このまま消えてしまいたい。そう思うことは他の人にはないのだろうか。このまま死んでしまいたいのではなく、消えてしまいたい。ここにいなかったものとなってしまいたい。
 そんな風に思うことはないのだろうか。
 終電ギリギリの電車はがらがらだった。私は空いた席に座ってガラスに映る自分の顔を眺めていた。窓に映る月明かりに滲んで(にじんで)ゆがんだ私の顔。泣き笑い。いつも笑っているような顔だって言われた。そういう顔つきなのだ。嫌な仕事も顔に出さずにやるのは得意だった。
 最近はその笑い方すら忘れてしまった。

「もっとさあ、俺に甘えられないの?」
 彼は向かいの席でビールのグラスに私が瓶から注いでくれる間も与えてくれず、黄色い液体を飲み干していく。
「なんでお前ってさあ、そうやってひとりでしゃんと立っていられる女を気取るの? ふりでもいいから、もう少し俺に寄りかかって来いよ」
 ふりでいいの? 気取るのではなく、甘えるふりでいいの? この前までそうやっていた。
 それができなくなったのは……。
 彼の口からゆっくりとため息が吐き出される。私はその息が消えて行った先を眺めていた。
 カウンター席の向こうから立ちのぼる煙のように、ゆらゆらと遠い空のどこかへと消えていけたらいいのに。
「昔はもっと可愛かったのになあ。女も三十五歳にもなるともうダメか」
 彼はからかうように私に笑いかけたけれど、私が笑い返さなかったので軽く舌打ちしてレシートを手に立っていった。
 私は彼の細い背中を見ながら後をついていく。こういう終わり方もあるのだろう。
 いま私が彼に笑い返せていれば私たちは終わらなかった。
 さっきの彼の愚痴も、最近の私たちの中に流れていた微妙な空気も、まだ知らない、気がつかなかったものとすることが出来た。だけれど、もう得意な笑い顔をつくることができなくなってしまった。

 トントン。
 膝を叩かれて私は目を開けた。車掌さんが目の前で屈んで柔らかく笑って私を見下ろしていた。
「駅に着きましたよ。この電車は倉庫に入ります」
「あ、はい。すみません」
 いつもこの電車の遅い時間に乗って帰るからこの車掌さんとは既に知り合いだった。
「ごめんなさい。いつも」
「いえ、お疲れなのですね」
 彼の方をよく見ることもなく私は慌てて電車を降りる。
「後ろ確認、前よし――
 とっくに新人でもないのにあの車掌さんは、たった二両の江ノ電の降車確認を繰り返す。
 彼の毎日はきっとそうやって始まりそうやって終わる。
 私の毎日は憂鬱な顔をどうにかすべく鏡に向かってメイクをし、帰りの電車の窓に映るゆがんだ自分の顔にため息をついて終わっていく。

 地元の町は工事だらけだ。ついこの前まで行っていた緑化計画はどこに行ったのか、あちこちマンションを立てるべく木が切り倒されている。私は家に向かう坂をあがりながら、毎日景色が変わるほど切り倒されていく周囲の様子を眺めていた。
 コートのポケットに突っ込んでおいた携帯電話のバイブが鳴った。
 慌てて取り出す。携帯電話を開いて見てもメールが来たマークも着信履歴もなにも残ってはいなかった。小さい電灯がひとつついた下で辺りを見渡した。誰ひとりとしていなかった。誰かの音に勘違いしたのではない。
 本当は今夜、抱きしめて欲しかったのに。抱きしめてくれなかった人。
 本当は今夜、ずっと一緒にいたかったのに。一緒にいてくれなかった人。
 そんな私の様子に気がついてくれなかった人。
 わがままな奴だと嫌われたくなくて「帰りたくない」の一言がいえなかった自分。
 特別な理由はなかった。ただ彼と一緒にいたかった。それを言うために何かが必要だった。
 明日も仕事なのに私のわがままだと言われそうだと思った。本当にそう思った。
 さっき飲み込んだひとことを彼は望んでいたかもしれないのに。
 私が抱きつくのを彼は男性にしては細い背中で待っていたかもしれないのに。
 どうしてもその一歩が踏み出すことができなかった。
 その理由はなんだろう。
 目の前に広がる溜め池を眺めた。湖じゃない。水溜りというほど小さいものでもない。溜め池。そう名づけたならきっとぴったりくる茶色い土と水の集合体。
 まるで私の心の中みたい。黒でもなく白でもなく、グレーでもない。茶色い土に水だけでなく細かいゴミが詰まって吐き出すこともできない。溜まってにごって溢れていくだけの器。
 私は携帯電話を握りしめていた。更に強く握り締めて投げ飛ばした。
 ぶくぶく……。茶色く濁った水の中。私の心の中に落ちていく。
 彼のことは好きだった。会計というより雑用事務の仕事も好きだった。笑い続けることも嫌いじゃなかった。
 なにかが足りない。私の中には澄んだ水がどれだけ苦労しても流れてくることがない。そんな私を見透かされたくなくて。お前、本当は汚いのだろうって言われたくなくて。ずっと面白くもないのに笑い続けていた。
 本当は誰かに自分の濁った部分を見破って欲しかった。そんなに笑わなくってもいいよって言って欲しかった。そう囁いてくれたなら、迷うことなく手を伸ばすことが出来たのに。


 トントン。
 また膝を叩かれた。眠っている人の肩などを急に叩いたりすると心臓に悪いので、膝を叩いて起さねばならないのだと、前に車掌さんは冗談めかして私に言ったことがある。
 私はうっすら目を開けた。笑うとやさしい顔になる車掌さんは今夜も微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
 顔色が悪いのだろう。このごろよく眠っていない。よく眠れるのはこの江ノ電の中だけだ。
「電車の揺れがあまりに気持ちがいいので眠ってしまって……」
「分かります」
 私は彼に支えられるような格好で立ち上がった。
 ふと窓を見つめる。私のゆがんだ顔が月の光に滲んでこっちを眺めていた。
「もうすぐ満月ですね」
 彼は私が月に気を取られていたと思ったらしく、そんなことを呟いた。
「え、あ、はい。そうですね」
 私は慌てて呟いた。
「後ろ確認、前よし」
 彼の指差し確認をぼんやりと眺めながら、私は無人の改札口を後にした。
 いつものようにひとけのない帰り道の坂をあがる。
 あと少し、あと少し上るとあの溜め池がある。私の心が埋まっている場所。
 私の心そのものの……。
「え」
 私は立ち止まって思わず声を発した。
 目の前にはコンクリートの平らな地面が広がっているだけだった。


 私が注意したことが発端でストレスが溜まったという派遣の二十五歳の女の子は、恋人が出来たと報告をして来た途端に元気になった。その時、私はお茶を配っていた。会社が休みの日以外、毎朝ずっとお茶当番を続けている。今時やる必要はないのかもしれないけれど、自分も飲みたいし、五人しかいない小さい事務所で唯一の正社員の女は自分だけの中で、ずっと勤め続けられてきた。私なりの処世術だ。
「どうしたの? 最近の高梨さん、元気がないね」
 へ? 社長の仏頂面に振り返ってしまった。
「君のお茶は相変わらず美味しいけどね」
 社長は私を見上げてにやりとした。
 私は軽くお辞儀をして、急いで他の人に湯呑を配る。みんな気味が悪いほどにやにやしていた。
「なにかあったのですか?」
 私は溜まらなくなって聞いてしまった。
「いや、昨日の帰り際に彼女が入れてくれたお茶がまずくてさあ」
 同期の営業が女の子を指差して笑う。
「二度といれませんよーだ!」
 彼女は“いー”と歯を出して応える。子供っぽい。
 社内に笑いが漏れる。この狭い事務所の全体に明るい笑いが広まることがあるなんて考えてみたもなかった。

 トントン。
 私は目を開けた。目の前にはいつもの通りのやさしい笑顔が待っていた。
「今日で最後ですよ」
「え?」
「今日で私は四十歳です。明日からは鎌倉駅の駅員になります。今夜であなたを起こすのも最後だ」
 私は彼と一緒に電車を降りた。二人で緑色の短い電車をじっと眺める。古びた車体を飽きずに見ていた。
「さて、はじめますか」
 彼はまっすぐに私を指差した。
「後ろ確認、前よし」
 私は打たれたようにそこに背筋を伸ばして立ちすくんでいた。
「前よし」
 彼が私にそっと笑いかける。私が彼にどんな顔を返せたのか知りたかった。車両の窓を恐る恐る眺める。笑った私の顔の後ろにぽっかりと月が浮かんでいた。
「見事な満月ですね」
 私の後ろに立った車掌さんが私と同じように窓に映った満月を眺めて呟く。
 二人の笑顔が窓に映っていた。
「そうですね……」
 ことばを発する度にあつい息が漏れる。その息が窓を曇らせていく。
 私はアイロンをかけたばかりのハンカチをトートバックから取り出して、その息で白くなった窓を丁寧に拭いた。キュッキュと音が出るほど力強く磨き続けた。
「後ろ確認、前よし」
 彼の声が響く。私の後ろには見事な満月。そして進む先には……。
 自分で磨き上げた窓に背を向けると目が合った。

【おわり】


矢印記録
初稿 2007-09
改稿 2021-10

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